January 27, 2012
tofubeats:

このまま/konomama | tofubeats bandcamp

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このまま/konomama | tofubeats bandcamp

January 26, 2012

(Source: colaup, via gxchxn)

January 26, 2012
widwidit:

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(via illreme)

January 25, 2012
illillill:

終

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(via tokori)

January 25, 2012
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kenzee「そこでそろそろ驚愕の結論にいくわけだが、宇野さんの本に話を戻すが宇野さんのサブカルチャー論とはこういうものだ。もはや、圧倒的な天才がシーンを引っ張るという時代は終わった。山口百恵や松田聖子のような天才がアイドルを代表する時代ではなくなった。同様にたけしや松本のような圧倒的な影響力がお笑いを代表する時代ではなくなった。ではどうなったか。宇野さんは「ゲーム」がシーンを動かしているのだという。たとえばAKB48のメンバーは一人一人は個性的な天才とは言い難い。むしろ十人並というべきだろう。しかし、ひとたびAKBというゲーム(それも総選挙などのガチ度の高い)に参加するとどこにでもいる普通の女の子が個を発揮せざるをえない状況となる。そしてネットを通じてそれに対する非難や賞賛がかなりのスピードで可視化される。お笑いでいえば「アメトーーーーク」のような「場」でどうふるまうか。音楽においても宇多田ヒカルのような天才がシーンを引っ張る状況ではすでになく、ボーカロイドのシーンのように「場」に匿名の作家が出入りし、評価を受ける状況がある。同じような話を「文科系のためのヒップホップ入門」(長谷川町蔵・大和田俊之・いりぐちアルテス)のなかで述べている。ロックとヒップホップの違い、という議論がよく起こるが、ロックのシーンとは演者のパーソナリティーが重要視されるもので基本的な表現の回路が「内省」にあるのだという。それは西洋の文化史をたどれば宗教儀礼上の「告白」に遡れるはずだが、内面の表象、というロック信仰はいまだ根強い。だが、ヒップホップ文化には初めから「内から湧き出る」という考えがない、大量のレコードコレクションの中から編集、つまり東浩紀風に言うなら「データベースにアクセスして」創作するのが前提の文化である。

大和田「(ロックの)オリジナル信仰と「天才」を必要とする傾向はセットであると。たしかに相対的にみるとヒップホップって「天才」と呼ばれるミュージシャンが少ないというか、ファンはヒップホップという「場=シーン」(筆者注・宇野さんのいう「ゲーム」もこれに該当するだろう)に注目している。ロックの場合は「俺はボブ・ディランしか聴かない」というようなファンも多いですよね」

長谷川「「俺はKRSワンしか聴かない」なんて言っているヒップホップ・ファンはいません。いたら格好いいけど(笑)」(文科系のためのヒップホップ入門)

kenzee「確かに自分を振り返ってもヒップホップってコンピから入った。とにかくヒップホップ系のコンピのCDって500円ぐらいで投げ売りされているのでそういうのでヒップホップの耳を作っていった、という記憶がある。あるいはミックステープ、ミックスCD、そういうので「場」全体の空気感を知るのが楽しかったという記憶がある」

長谷川「文章に喩えるなら、ロックは単行本で刊行される純文学で、ヒップホップはTwitterのつぶやきなんですよ。前者は個人の著作物だけど後者はまず場があってその上で表現がある。受け手は個々の表現よりもシーンという名のタイムライン上のやりとりを楽しんでいる。表現する側も、自己表現したいというよりは「セックス」や「ドラッグ」ってハッシュタグに対して気の利いたことを言ってフォロワーを増やすことがモチベーションになっているわけです」(前掲書)

kenzee「さらにこの本では「ヒップホップは少年ジャンプであり、プロレスであり、お笑いである、という。確かに日本のお笑いのシーンとヒップホップ文化はよく似ている。まず、日本で金やセックスをあけすけに語って人気があるのはお笑いだけである。そういう意味では日本のヒップホップよりお笑いのほうが本場に近いといえる。

長谷川「彼らは女好きを吹聴していますけど、本当に愛しているのは自分が属する芸人仲間の集団で、すごいホモソーシャルなんですよ」

大和田「たけし軍団や松本軍団ってよくいわれますけど、あれってクルーですよね」

長谷川「いわゆる良識派からは眉をひそめられる一方で、売れているヤツはそれなりに頭がいいっていう了解が世間的に存在する」(前掲書)

kenzee「ボク、このラーメン特集見て真っ先に思ったのは登場する店員さんのなかに女性がいないんですよ。うどんのほうは夫婦とかいるのに。つまり、ホモソーシャル的なのです。もちろんバイトのなかには女性店員もいるかもしれないが、のれんわけされた者はいないのではないか。そう考えると家系の「家」とはヒップホップでいう「クルー」あるいはたけし軍団、ダウンタウンファミリーにおける「軍団」「後輩連中」に極めて相似形に思えるのだ。地方からでてきた、文化資本や社会関係資本を持たぬ若者たちがファミリーを結成する、そして「場」「ゲーム」を通して社会に繋がっていく。彼らの存在が急にラッパーにように感じられるではないですか。つまり「家系」とは師匠feat.弟子、弟子…というポッセカットなのです。または師匠の冠番組なんですな」

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http://bungeishi.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-c370.html

January 25, 2012
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kenzee「ポピュラーミュージックの作曲には幾つかのルールがある(実験的な作品を除いて)。今あるポピュラーミュージックは例外なく黒人音楽の影響を受けているわけだが、その代表的なものがビート(反復)感覚である。現代のポピュラーはメロディ自体がそもそもビートの一部を担うのだ。わかりやすい例でみんな知ってる山下達郎の「クリスマス・イブ」で考えてみよう。

 雨は夜更けすぎに 雪へと変わるだろう Silent Night Holy Night

この「雨は~」と「雪へ~」は同じビートであるとわかるだろう。また、メロディの抑揚も最初の「雨は~」を踏襲するものであり、ここに反復があるとわかる。そのあとの「Silent Night Holy Night」はそのままの反復だ。そして「きっと君はこない~」と再び反復される。つまり、このAメロは小反復と、さらにそのまとまりの大反復がある。一見、ボソーっとした歌だが、実はビートのカタマリのような曲だ。続くBメロだが

 心ふかく 秘めた思い 叶えられそうもない

ここも典型的なJ-POPの作法に基づいているので注意したい。例によって「心ふかく 秘めた思い」は反復の関係にある。そして「叶えられそうもない」で展開が起こる。この、2回繰り返して3回目で「もうエエわ!」と展開するのがJ-POPの定番中の定番ワザなのだ。ちょっと思い起こすだけでポコポコでてくるはずだ。

 Your Everything Your Everything あなたが想うより強く(MISIA「Everything」)

司会者「ホントだ!2回繰り返して3回目で展開しますね!」

 どんなときも どんなときも 僕が僕らしくあるために(槇原敬之「どんなときも。」)

司会者「ワー!」

 誰もが胸の奥に 秘めた迷いのなかで Woo手にしたぬくもりを

 それぞれに抱きしめて 新たなる道をゆく Oh,Yes Oh,Yes Woo          (Mr.Children「CROSSROAD」)

kenzee「おわかりいただけたか。2回繰り返したあと、3回目で「エエカゲンにしなサイ!」とツッコムのだ。我々大衆はナゼかこのビート感を気持ちいいと感じてしまうのだ」

司会者「2回ボケて3回目でツッコムというベタなノリツッコミは音楽的な感覚に基づくものだったのですね」

 何をゴールに決めて 何を犠牲にしたの 誰も知らず

 歓声よりも長く 興奮よりも速く 走ろうとしていた あなたを

 少しでもわかりたいから(松任谷由実「NO SIDE」)

kenzee「ヒットだしたかったらコレ! 各メーカーのA&Rの方は耳カッポじってよく聞いとくように。「売れるメロディとは2回ボケて3回目でツッコム。コレ!」

司会者「セーラー服を 脱がさないで 今はダメよこんなところじゃ~。ホントだな~。こんなトコでも3回目でツッコンどる」

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http://bungeishi.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-936d.html

January 25, 2012
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友人が高校時代採用していた大富豪のルールでは、二回革命を起こすと「レーニン」と呼ばれ、以降共産主義経済ルールに移行するらしい。(例:ゲーム始めに大富豪が大貧民に良カードをあげる)
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Twitter / @jackojacko_ (via mug-g)

(via 2425)

January 23, 2012
pootee:

20jazzfunkgreats - Exodus

pootee:

20jazzfunkgreats - Exodus

January 23, 2012
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だが、泣く人の気持ちはわかるような気がした。別に泣いたっていいじゃないか、とも思った。問題はその先だ。多くの人が「ああ、自分は泣いてしまった。不覚ではあるが事実は事実だ。ここは厳粛にこの事実を受け入れ、この作品を評価せずばなるまい」と思い込んでいるようなのだ。これが私にはよくわからない。皆あまりに自分の生理現象を信頼しすぎているのではないか。人は梅干しの写真を見れば唾液が出てきてしまうのだ。

 私などそりゃもう恥ずかしいぐらいによく泣く。このあいだは、タイトルも知らない単発ドラマを、終了5分前から観始めて泣いた。登場人物の人間関係も、そこまでのストーリーすらまったくわからないのに、ある年配の役者が発したセリフのひと言に感じ入って涙が出てしまったのだ。これにはさすがの私もあきれ、そして理解した。

 人が涙を流すのは必ずしも作品の出来とは関係がないのだ、と。

 かつて自分が何かに感動した時にできた涙腺回路のようなものが頭の中にはあって、そこにピタリとはまるような場面だの言葉だのを見聞きしてしまうと、涙というのはどうやら自然に流れる仕組みになっているらしいのである。歳をとると涙もろくなるというのは、つまりそういう回路のパターンが増えているからではないか。

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ゲーセンとかけそばと泣ける話とゲラゲラ笑う人達 - 脳髄にアイスピック (via otsune)

(via neg722)

January 23, 2012

(Source: flamingdragon, via 2425)